僕の語学史Ⅱ
- 語楽舎
- 4月12日
- 読了時間: 4分
キリル文字という最初の関門を突破し、意気揚々とロシア語の文法に踏み込んだ僕を待っていたのは、想像を絶する難しさだった。
フランス語もイタリア語も、日本人にとっては十分に難しい言語だ。動詞の活用があり、名詞に性別があり、覚えることは山ほどある。でも、ロシア語の文法はそれらとは次元が違った。
ロシア語最大の難関——それが格変化だ。
格変化と聞いてもピンとこない人も多いと思うので、少し説明しよう。日本語で考えると実はわかりやすい。「私」という言葉は、文の中での役割によって形が変わる。
「私が行く」(主語)
「私を呼ぶ」(目的語)
「私に渡す」(間接目的語)
「私のもの」(所有)
日本語では「が・を・に・の」という助詞を後ろにつけることでその役割を示す。ところがロシア語では、助詞に相当するものがない代わりに、単語そのものの語尾が変化するのだ。しかも日本語の助詞よりもずっと多く、主格・生格・与格・対格・造格・前置格の6つの格がある。名詞だけでなく、形容詞も代名詞も、この6つのパターンに合わせて全部形が変わる。
つまり、単語を1つ覚えたら終わりではない。その単語の6通りの変化形を覚えなければならないのだ。さらに名詞には男性・女性・中性の3つの性別があり、単数と複数でも変化が異なる。基本パターンを覚えたと思ったら、今度は例外が現れる。例外を覚えたら、また別の例外が出てくる。
「格変化を習得して、やっとロシア語文法のスタートラインに立てる」——これは冗談のように聞こえるかもしれないが、まったく笑えない現実だった。
問題は、どう頑張っても覚えられないことだった。
参考書の例題は数が少なく、とても練習量として足りない。「よし、ネットで練習問題を探そう」とパソコンに向かったが、日本語で解説されたロシア語の格変化練習問題というのが、当時はほとんど見当たらなかった。英語のサイトをあたってみたものの、英語で説明されるロシア語の格変化は頭がこんがらがって余計に混乱するだけだった。
ロシア語学習は、キリル文字を突破してわずか数週間で、早々と暗礁に乗り上げてしまった。
もう一つ、僕には致命的な弱点があった。
暗記が、壊滅的に苦手なのだ。
語学には暗記がつきものだ。単語も、文法ルールも、最低限は頭に入れなければならない。でも僕のやり方はずっと、「覚える」というより「慣れる」に近いものだった。英語もフランス語も、ネイティブとの会話を繰り返す中で、自然と体に染み込ませてきた。理屈より先に感覚で覚えるタイプ、とでも言えばいいだろうか。
しかしロシア語は勝手が違った。話す練習相手がいないのだ。
チャットを続けている彼女はいる。でも彼女はフリーランスで仕事をしているから、チャットできる時間は限られている。しかも長文を送り合うというより、日常的な近況報告が中心で、ガッツリ文法練習をお願いできるような関係性でもなかった。ビデオ通話をして会話練習をする、というのも現実的ではなかった。そして周りを見回してみても、ロシア人の知り合いは一人もいない。
練習できない。フィードバックをもらえない。達成感もない。
モチベーションは一週間もしないうちに急降下し、ついに僕はロシア語をあきらめる直前まで追い詰められていた。
そんな土壇場で、ふと一つのことを思い出した。
僕の大学には、ロシア語の授業があった。
しかも、ウクライナ人の先生が常勤講師として在籍していたのだ。授業の内容は僕がやりたいこととは少し違うし、今からクラスに入るわけにもいかない。でも、直接お願いしてみたらどうだろう?
「放課後にマンツーマンで教えてもらえないか」——そう思い立った僕は、さっそく先生に会いに行った。ロシア語を始めたきっかけから、キリル文字を覚えた経緯、格変化で完全に詰まってしまっていること、練習相手がいないこと。正直に全部話した。
先生は、じっと話を聞いてくれた。
そして、「いいですよ」と言ってくれた。
次の週から、毎週1時間のマンツーマンレッスンが始まることになった。しかも、無料で。
諦めかけていたロシア語への道が、突然、ぱっと開けた瞬間だった。

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